人名、地名等の解説

天智天皇(中大兄皇子) 大宰府政庁 大野城
白村江の戦い 百 済 新 羅
◎ 天智天皇(中大兄皇子)
  
  中大兄皇子は舒明天皇の皇子、母は皇極(斉明)天皇。皇極4年(645年)中臣 鎌足らと
  
  蘇我氏を討ち、大化の改新を断行。孝徳、斉明両朝の皇太子として、又斉明天皇崩御
  
  の後は、政治の実権を握り、近江遷都後の665年に即位した。治世の根幹を天皇制的
  
  中央集権の強化、中国の制度・文化・物資を積極的に輸入して、近江令の制定、戸籍の
  
  整備等を行った。

 ○内政・外交
    
 
   阿倍比羅夫を将軍として東北地方、日本海沿岸の軍事経略が進められた。さらに朝鮮
  
  出兵を促した原因は、唐の朝鮮経営の進展であらう。唐の太宗は隋の高句麗征討の後
  
  を襲って東方の経略を進め、既に大化元年に新羅を助けて、高句麗に大軍をおこしてい
  
  る。その後、高宗が新羅との関係を密にして、斉明6年(660年)百済の首都を陥れる。
  
   尚、抵抗を続けていた百済の遺将は、日本に救援を求めてきた。そこで朝廷はこれを
  
  受け入れることで翌年3月、斉明天皇は中大兄皇子等と共に筑紫に移った。その7月、
  
  斉明女帝は朝倉橘広庭宮(アサクラタチバナノヒロニワノミヤ)で崩御された。中大兄皇子が称制
  
  (天皇の位につかずに実権を行使すること)にして水表(オチカタ)の軍政(イクサノマツリゴト)を
  
  とることになり、次々と軍兵、武器を朝鮮に送り込んだ。然し日本軍の支援を受けた百済
  
  の遺将も、唐・新羅の連合軍に抗し得ず、663年秋白村江の海戦で救援の日本軍も大敗
  
  し、軍を引き上げた。唐・新羅の連合軍は百済征討目的を達し、668年には高句麗の
  
  首都も陥れ、唐は暫く軍を駐屯させた。このような情勢の元で、天智天皇は再び内政に
  
   力を入れた。緊迫した対外関係に対処するため戦後外交の調整と、国土防衛にあたった。
    
  天智称制3年(664年)対馬、筑紫に烽(トブ゙ヒ)をおき、大宰府に水城を造って敵襲 に備え
  
  た。翌年百済の亡命兵法家を筑紫にやって、大野城、基肄(椽)城を築き667年には対馬、
  
  讃岐さらに倭に高安城を築いて国土防衛にあたった。また670年には全国的に戸籍(庚
  
  午年籍)を造った。668年には斉明女帝の葬儀を終えて近江大津宮に都を移し、翌年天
  
  皇の位についた。そのとき日本最古『法典近江令』が制定された。大化の政治改革、律令
  
  国家創立の事業を一段と促進し、それが対外関係上極めて緊迫した情勢のもとで、達成
  
  されたことは特に注目すべきものがある。
 

◎ 大 宰 府 政 庁

  律令制度のもとで、九州地方の筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、大隅、薩摩

  の9ケ国と対馬、壱岐、多禰の三島を支配して外交、貿易、軍事を司った地方の行政機関

  であった。

  3世紀の日本の状況を伝える『魏志倭人伝』には諸国の盟主である邪馬台国が今の

  前原付近にあった伊都国に『一大卒』と呼ばれる官を置き、諸国を支配し、外国の交渉

  にあたらせていたと記されている。大宰府の長官が卒(ソツ)と呼ばれていることからも

  一大卒を大宰府の起源と考えてよいのではないか。福岡市付近に那津(ナノツ)の口に

  宮家が建設され、各地の大和朝廷の直轄領から穀物が運ばれたと『日本書記』はつた
 
  えている。この宮家とは軍事、兵站基地と同時に地方行政機関を兼ねたもので、大宰府

  の先行形態と考えられている。

  7世紀前半から『日本書記』に筑紫大率、筑紫大宰率等外交、軍事、城の機能をもち

  九州地方を統治する官職名が出てくる。天智天皇は(663年)百済を助ける為に朝鮮

  半島に出兵した日本軍は唐、新羅、の連合軍に敗北し、国際関係は俄に緊張の度を

  高めた。その為、西国防衛のための防人(サキモリ)がおかれ、水城の土塁、大野城、基

  肄(椽)城等朝鮮式山城が築城された。これらの防衛施設は大宰府の前面や側面を固

  める位置にあり、この頃既に国家機関としての大宰府が置かれたことを示唆している。
  
  大宰府と云う行政機構が、この地に置かれていたことは、大陸との門戸にあたるとともに

  朝鮮半島からの敵襲に対し、国土防衛の第一線としての位置、特殊性、重要性によるもの

  であらう。

  大宰府の中国風の呼び名が『都督府』であったことから今日『都府楼跡』とも云われている。

◎ 大 野 城
 
  福岡県大野城市大野城(おおのき山とも云う)

  白村江の戦いで大敗した日本軍は、南鮮に退き、他の戦線で転戦中の日本軍を集め
 
   亡命を希望する百済人を伴って帰国した。
 
    664年中大兄皇子は、新羅の連合軍の来襲に備え大宰府防備の為、水城を造らせ、

  日本に亡命していた百済の軍将、憶禮福留、四比福夫等に大野城、基肄(椽)城を築か

  せた。山の尾根に沿って土塁を巡らし、谷には石垣を築き、数ケ所の城門を造り、その城の
  
     中に食糧の保管倉庫、軍用品、兵舎等を建設した朝鮮式山城で日本最古の城である
  
     このような城は対馬の金田城にもある

◎ 白 村 江 の 戦 い

  朝鮮古代三国の一つである百済及びこれを支援する日本軍と新羅、唐の連合軍が戦っ

  た戦いである。

  その遣臣・鬼臣福信等は任存城によって抵抗を続け、当時日本に居た王子豊璋を迎え

  て日本の支援のもとで戦う準備を進めた。

  日本では斉明天皇が、中大兄皇子を従えて西下したが、朝倉橘広庭宮で崩御され代わ

  って中大兄皇子が執政した。王子豊璋を擁した日本軍は周留城に入ったが、百済側で

  内紛が起こり、福信は豊璋に殺された。

  新羅の文武王は、唐将・孫仁師、劉仁願 と共に周留城を攻めた。一方、劉仁軌率いる

  唐の水軍は白村江に下って、来着したばかりの日本軍と戦った。これが白村江の戦い

  である。

  時663年8月海戦2日目にして日本水軍は大敗し、豊璋は高句麗に逃れた。ここに日本

  にとって古代以来の対朝鮮進出政策が挫折し、外交政策の転機となった。

  白村江は現在の何処か、錦江下流の右岸とする見解が有力であるが、異説もあり確定

  を見ない。 

◎ 百  済
   
   朝鮮古代三国の一つである。  4世紀初頭から7世紀中頃まで『魏志・東夷伝』に

  よれば、古代朝鮮南部は馬韓、辰韓、弁韓の三っに分立していたが4世紀の初頭、馬韓

  の地より建国したらしい。北方の高句麗を討って、楽浪、帯方の地にまで侵入したが

  その後高句麗に攻められ南部へ圧迫されたので東部の新羅や日本と結んだ。

   百済は早くから中国の南朝と通交し、その位置が旧楽浪、帯方の地にあったので 朝鮮

  古代三国の中で最も中国文化、とりわけ南朝の文化の影響を受けていたものと思われる。
 
   
百済文化の特に注目すべきは仏教が浸透し多くの寺が建立されたことである。

  日本に初めて仏教、仏像を伝えたのも百済であった。尚、特に医学は進んでおり、易や

  暦と並んで発達し医博士と称する人が来日し、日本文化に大きく貢献している。このよう

  に大和政権に対しては種々文化交流を行って、中国、特に南朝文化を日本にもたらした。

   高句麗に広開土王が出現してからは後退の一途をたどり、475年首都が落とされ国王

  以下が殺された。新首都を熊津(ユウシン)に移したが聖明王538年更に南下して所夫里

  (ソフリ)に移した。そのころ中国は隋、続いて唐が成立した。新羅は唐と結び百済を攻め

  て義慈王20年(660年)、義慈王以下一族を唐に連行した。

  当
時の大和政権は水軍を出して救援し、皇子や遺臣の福信等を助けたが大和政権に

  も昔日の勢力はなく、又百済も内部の対立が生じ百済の祖国回復はならず663年完全

  に滅亡した。
     

◎ 新  羅

  朝鮮三国時代の国で、朝鮮最初の統一王国である。 350年頃朝鮮半島東部の慶尚

  北道、慶州郡の慶尚盆地の谷間に起こった部族国家である。

  350年頃辰韓諸国、斯廬(シロ)国を名主とした部族連合国家を形成し、国号も新羅とした。
  
  その後高句麗と倭の侵略を受け、国家体制の整備が出来なかったが、6世紀に入ると

  高句麗、倭の勢力が後退したので政治体制を整備して領土を拡大した。
  
  560年代慶尚北道、漢江流域、江原道及び咸鏡南道の南半分まで征服して、高句麗、

  百済と対立するようになった。660年頃には唐と結んで百済、高句麗を滅ぼしたが、

  文武王10年(670年)唐が朝鮮を支配しようとした為、新羅は唐の勢力を朝鮮半島から

  追い出した。その結果事実上朝鮮半島を統一して735年大同江以南の支配を唐に認

  めさせた。以後935年まで支配が続いた。 



 



  
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