日見〜長崎



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 天領の日見宿を過ぎると、やや勾配のある山裾の道を1kmほど歩く、これからが昔の旅人も、「坂甚だ急峻、馬にのること難し」と言った急坂である。。
 漢方薬の商をする会員が街道脇に植えられている枇杷の葉っぱをとって、”これを靴の底に敷くと疲れが取れるよ。”と教えてくれた。周りにいた会員は早速実行、足が軽くなったのか、日見峠まで登ることが出来た。
 この途中、薄塚付近は高速自動車道のトンネル工事の真っ最中で、案内標識があるものの、迷い迷い馬頭観音の正面に出た。
 馬頭観音から左に50mほど行くと日見新道の入口に着く。ここに山からの湧き水が曳かれていて、美味しかったこと格別であった。
 日見峠の西側(長崎側)に立つと、はるか彼方に稲佐山か霞んで見えた。この感激は今も忘れることが出来ない。
 これからは長崎市内へ国道34号線沿いに下る一方である。蛍茶屋から出る市電を見ながら、「長崎街道ここに始まる」と書かれた石柱が建つシーボルト通りを通り、蛇踊りで有名な諏訪神社に到着した。
 総勢19名の会員は長崎街道の無事踏破を終え、感激を噛みしめながら、神に頭を下げた。平成15年3月23日であった。

日見継ぎ場跡

駕籠や荷物の中継ぎをするところで、大きな藤棚の下にバンコがあり、熱いお茶を出してくれる駕籠かきや人足、或いは旅人の休憩所であった。
歯痛観音

瞑想なふける姿がいかにも痛む歯を押さえている姿に見えるところから、歯痛観音と言われた
芒塚句碑(三基)

向井去来(1651〜1704)(蕉門十哲の一人)の句碑で、天明4年(1784)に長崎の俳人達が建立した。
中央の去来句碑は、去来が長崎を離れるとき、ここまで見送りに来た人達に詠んだもので、、「君が手もまじるなるべし花薄」と刻まれている。
左側の碑は漢詩の碑で去来の紹介や漢詩が、右側の碑は献句で去来を顕彰して安政8年(1856)に建てたものである。県指定有形文化財である。
歴史の道長崎街道と書かれた案内板

芒塚句碑のところに建っており、これから約400m罵倒観音まで急坂が続く。
馬頭観音

当時の交通機関であった馬を祀り、信仰して、旅の安全を祈願した。
日見峠を望む

方の森には神社があり、その前を峠道が走っている。
峠の写真右の方には、関番所が幕末の混乱期に設けられ、通行人を厳しく取り締まった。
新茶屋の碑

明治新道が出来たときに明治新道の峠から100mほど長崎側に下ったところ(この地)に設けられた。
追分石

河内高部貯水池と低部貯水池の間にあり、正面に「??山大権現道」、右に「右」とだけ読める石柱が建っている。
本河内宝篋印塔(市指定有形文化財)

文化8年(1811)に本篭町住の薬種商中村盛右衛門親子が施主となり、肥後の豪潮が建てた供養塔である。
蛍茶屋跡

文化文政(1804〜1829)の頃、甲斐田市左衛門によって茶屋が営まれはじめた。この地は蛍の名所であったため、蛍茶屋と呼ばれた。
一の瀬橋

承応2年(1653)、唐通事であった陳道隆(頴川藤左衛門)が私費を投じて架けた石橋である。
橋の向こう乗用車の右が蛍茶屋跡である。この川に蛍が乱舞していた。
古橋

承応3年(1654)、唐通事の林守殿の肝いりで架けられたもので、長崎街道・長崎側の玄関橋であった。

下の写真、橋付近の石畳は、長崎開港の元亀2年(1571)より3年前、清時代の江南風舗装で、”長崎いしだたみ”の最古の風情である。
諏訪神社

主祭神は健御名方神八坂刀売神である。
この神社は長崎の総氏神様として寛永2年(1625)西山郷圓山に建立したのが初めであるが、慶安元年(1648)に現在地の玉園山に再建された。その後、火災による焼失、数度の再建を経て現在の社殿となった。毎年10月7,8,9日は”長崎くんち”と呼ばれる大祭があり、日本三大祭りの一つに数えられ、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
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