小倉〜黒崎


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 平成13年3月に歩き始めた長崎街道の出発点・小倉である。歩こうと決心したものの、地図も何もなく、とりあえず小倉市役所に脚を向けた。
 担当の人から河島悦子著「長崎街道」を見せていただき、是さえあればと、小倉の書店に飛び込んで早速購入。これをを片手に勇気百倍の思いで歩き始めた。
 小倉宿は昔日の面影はなく、新しく架けられた常盤橋が長崎街道の出発点として、印象付けてくれる。九州出入り口の要であった小倉城を左に見ながら、水かけ地蔵に着く、近年地域の人により長崎街道と刻した碑が建てられ、整備されているが、水は飲めるものではなかった。三国の国境石は当時の位置にあり立派に保存されている。しかし、周辺は住宅地化され、市長公舎もあった。
 ここから700mほど西に行くと大蔵というところがある。皿倉山から北東にのびる稜線で、西の方に新日鉄八幡製鉄所、スペースワールド、若松区などが見える。道路幅は大きくなり1kmほど行くと国道3号線にぶつかる。この辺りは長崎街道もなくなり、八幡の市街地である。
 国境石は八幡駅南約500mの図書館の敷地内にあり、その約600m先に前田の一里塚がある。 黒崎宿へはおおむね3号線沿いに歩き、紅梅1丁目から鹿児島本線を渡り、200mほどで東構口跡に着く。
小倉城

小倉は陸海の交通の要衝として、古くから砦や城が築かれたところである。
この小倉城は慶長7年(1602)に関が原の戦いで功績のあった細川忠興32万石が約7年の歳月をかけ築いた南蛮造りの名城である。
その後、小笠原15万石の居城となり、九州各地に通ずる街道の起点として一層重要な地位を確立し、城はさらに充実、城下町も繁栄した。
慶応2年(1866)長州戦争の折焼失し、そのままになっていたが、昭和34年(1959)市民の熱望により天守閣が再建された。
常盤橋

常盤橋は江戸時代の初期、小倉の城下町の東曲輪と西曲輪を結ぶ、重要な橋として架けられ、当初は大橋と呼ばれていた。
この橋の西勢溜(橋詰)が長崎街道の
起点となっていたため、橋の周辺は幕府役人や旅人の宿などが建ち並んで賑わっていた。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っている。中でも有名なのがドイツ人医師シーボルトで、この橋を銅版画で紹介している。

このように海と陸の玄関口として、九州における日本橋となっていた。
常盤橋の石杭

真ん中の石碑には「史跡 常盤大橋之跡」彫られている。その左に展示されている石杭は旧常盤大橋の礎石である。
水かけ地蔵尊

遠く万葉の時代から霊水が湧き出で、皇后水、観音霊水、弘法の水などといわれ、街道を通る数多の人が駒を止め、しばし憩いの場としたところである。
茶屋町橋梁

市指定史跡「九州鉄道茶屋町橋梁」といい、明治24年4月に開通した九州鉄道大蔵線の施設である。
三条の国境石

この地域は東西に豊前国と筑前国に分ける国境で、紛争多発地域であったため、江戸中期に小倉藩と福岡藩によって多くの境石が建てられた。
 この境石は福岡藩によって建てられたもので、「従是西肥前国」と刻銘されており、天保5年(1834)同藩最大規模の境石であるとともに、当時の位置に残る貴重な資料である。 
国境石

古くから北九州地域は、そのほぼ中央から東西に豊前国と筑前国の二つに分かれていた。その国境線には、小倉藩と福岡藩によって建てられた国境石が多数あったが、現在では14基が残っている。ここにある国境石は上下が欠けているが「これより東豊前国小倉領、これより西筑前国」と解読できる。この碑は昭和39年に旧八幡市役所の内庭に保存されていたものをここに移設したも
のである。
前田の一里塚跡

遠賀郡往還古図に「前田川の西に小川ありて、その土橋を渡りたる所に第一の塚あり」と記されているのがここである。
一里塚は、街道の両側に一里(約4km)ごとに設けられた塚で、旅人には距離の目安となり、馬や駕籠の賃銭を支払うときの目安にもなった。塚には、杉や榎などを植えたが、この前田の塚には松が植えられていた。
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