北方〜武雄


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 古い家並みが続く北方宿には、本陣だけが残る淋しい宿跡であるが、古代には橘氏の居館があった所で、交通の要衝であった。 
 江戸時代の北方宿は本陣の前に脇本陣と多久領の米倉もあり、宿場一帯には駅亭、問屋場、旅籠、商家などがあり活気に満ちていた。
 北方宿から先の長崎自動車道のしたを通り、1kmほど歩くと高橋に着く。ここの角に祀られている火除地蔵から右折し、街中を500mほど行くと「長崎街道見て歩き」と書かれた看板にぶつかる。そこから高橋川に架かる享保橋を渡り、閻魔坂へ。 
 ここから武雄療養所までの細い道を通り武雄市内へと入る。
 市内の長崎街道は夜泣き地蔵・八並の石塔を中心に800mほどは道は狭く、両側の民家も古い家が多く、街道を歩くことに快適ささえ感じる。
 鍵形道路と表示されたところから街は良く整備され、道路には小倉から長崎までの宿場の絵が描かれ、温泉町に相応しい市民の取り組みが覗われる。

本陣跡

の建物は天保10年(1839)に建てられたもので、当時の構造を今に残している。
ここには日本地図を作った伊能忠敬も宿泊している。
大崎八幡神社

明治時代にいくつかの神社が合祀され、学問の神、山の神、農業の神などが祀られている。
拝殿には、大崎村大副炭鉱の繁栄と、「やま」で働く人々の安全を祈願した炭鉱絵馬が奉納してある。
絵馬には慶応元年(1865)当時の大副山と、その麓の炭鉱風景や、六角川に浮かぶ石炭運搬船などが描かれている。
追分石

石柱には左の面に「たけを」、右の面に「いまり」と刻まれている。
天満宮
高橋川の袂に建つ火除地蔵
閻魔大王石像
阿弥陀仏六地蔵
八並の石塔

建久4年(1193)、曽我十郎、五郎兄弟は仇討ちは叶えられたものの、兄は殺され、弟は獄中で病死した。兄の許婚の大磯の虎御前は、出家し善光寺の尼僧となった。ちょうどその頃、佐賀の小城の里に岩蔵寺が建つと聞き、九州に下り、武雄の地に八並に石塔を建てたと言われている。
その後、虎御前は小城の岩蔵寺で、写経と読経の毎日を過しながら余命を全うしたと伝えられているl。

諏訪神社

13世紀のおわりに領主が、この八並に館を定めたときの守護神として建立したもので、以後、戦いの神、農業の神として崇められてきた。
伊勢講碑

明治38年の伊勢講碑である、。この碑は汽車が通ってからのお参りのようで、道中記から計算すると往復15日の旅だったらしい。
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