大村〜永昌


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 大村宿を通る長崎街道は現在の本町商店街を通り、内田川の鶴亀橋の直前で左折し、山手の方に向かうが、街道を大村城から遠ざける為であった。
 長与俊達の墓付近から野田神社を過ぎ、国立中央病院付近までの道路は狭く、昔のままの感じを受ける。この道から西を望むと、大村湾が下の方に見える。
 建て替えられた国立中央病院を見ながら国道34号線を渡り、大神宮に付く。
 ここからが鈴田峠への上り坂となる。渡辺伝弥九の墓を過ぎる頃から、車も通れない、しかも造林杉に覆われた鬱蒼とした山道となるが、当時の景観が極めて良く残っている場所として、文化庁により「歴史の道百選」に選ばれている。
 鈴田峠には弁慶の足形石と説明版があり、大村藩と鍋島藩諫早領との藩境には藩境石塚が点々と置かれている。
 峠から約1km半ほど薄暗い山道を進むと大村街道案内板にたどり着く。この辺りで善方が開け、諫早市が目に入る。国道34号線バイパスを渡り、1km半ほど歩くと永昌宿である。

 
永昌宿と刻まれた石柱のところは昔、追分石があったが、鋭角に西へ行くと長崎街道、東へ行くと永昌宿を通り、島原街道とt太良街道になる。

長与俊達の墓

長崎で静養医学を学び、大村藩の藩医として天然痘の根絶に努めた。
野田神社

寛文3年藩主大村純長が創建した。この前を通る旅人にとって、神社の杜は絶好の休憩場所であった。
大村藩鈴田番所跡

大村藩の番所で、慶安2年(1649)に設けられた。その後この地に移り住み、番所を兼ねるようになった。
大神宮

江戸時代には古松権現という神社があったが、キリシタンの社寺焼き討ちに遭い焼失したため、藩主大村純信が再建した神社である。明治になり、他の神社も合祀し、大神宮となった。
この付近には古松休憩所があり、旅人が足を休めた。
渡辺伝弥九の墓

キリシタン大名大村純忠の家臣として活躍した。
藩境石塚

大村郷村記によると、藩境石塚は、享保15年(1725)に約30mおきに諫早・大村境に設置され、その数は三百数十基に及び、大村は丸塚、諫早は角塚を交互に築いた。
そして両藩が厳重に守ってきたもので、修理の場合も両者立会いのもとに厳重に行った。と書かれている。
写真の塚は丸塚で大村藩が築いたものであろう。
国境石

弁慶の足形石、硯石、鬼の足形石とも言い、国境石にしていた。
鈴田峠道

国境から諫早への下り道、一人で歩くと追剥が出そうな道である。
この峠道は長崎街道の当時の景観を最も良く残している場所として、平成8年文化庁より「歴史の道百選」に選定された。
大渡野番所跡

佐賀藩の番所であり、日野という場所にあることから、日野番所とも言う。
岩茶屋跡

ところてんが美味しかったとか。
永昌宿

前の石柱には「永昌宿」と刻まれている。
この場所には追分石と人馬継立所跡があって、
長崎街道は右・ゴミ箱方向(大村宿方向)から鋭角に左に曲がる。後方方向は雲仙、太良街道方向である。
永昌宿は後方に延びている。
永昌宿

前方に永昌宿は延びていた。約300m先にJR長崎本線が走っている。
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