諫早〜矢上


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 永昌宿から御館山公園の西側を通り小船越町へと進む、、JR長崎本線と国道57号線を渡り、長崎県立農業大学の東側から東大川の佐代姫橋へ、この袂にはさやんごぜんの碑がある。
 東大川を渡ると工場団地化された地域が長崎自動車道の諫早IC付近まで続く。この辺りの長崎街道は半分以上が無くなっている。
 諫早ICから1kmほど行くと赤松坂に着く。標識に案内され坂を下る。幅2〜3mくらいの昔ながらの道である。
 赤松坂から少し歩き、もう一度長崎自動車道の下を通ると200mほどで久山の旧茶屋橋に着く。
 これからは井樋ノ尾岳の山麓を通る道である。久山峠、井樋ノ尾峠、と遺跡一杯の道である。
 郡境石から駕籠立場跡辺りから見える大村湾は疲れた旅人の心を癒してくれたであろう。
 井樋ノ尾茶屋跡から1km半ほど先、長崎自動車道を2度通り抜けると藤棚茶屋跡に着く。この辺りからは国道34号線に沿って流れる八郎川沿いに長崎街道は通っている。
 古賀の大村庄屋跡、役の行者神社と4kmほど歩いて矢上宿に着く。

さやんごぜん

道祖元・「塞御前」と書くが、地元では「さやんごぜん」と呼んでいる。交通安全と疫病除けの神である。
左の背の高い石像は伊藤鼎之介の墓で、江藤新平に味方することから、ここで斬首され、埋葬されたものである。
お馬の水

馬や駕篭かきが休憩して水を飲んだところ。
赤松坂

100m弱の昔、そのままの坂が残っている。
一里塚跡

右側に表示板があるが、人の頭ほどの石が残っている。
郡境

「郡境 彼杵郡喜々津 高来郡久山」と刻まれている。
峠の茶屋跡

右の民家の付近に2軒の茶屋があった。
ここを通る旅人は名物の心太を食べ舌鼓を打ったとのことである
駕籠立場跡

ここは東西からの街道の上りきった所で、長崎警護の諸大名や長崎奉行が休憩した場所である。
領境石

文化5年(1808)のイギリス船フェートン号事件以降、長崎港警護の必要から、安政6年(1859)幕府の命により大村領東泊(大浦村)を天領に繰り入れ、代地として古賀村を大村領となったことから、長崎街道の佐賀領喜々津村と大村領古賀村の領境に領境石を建てたと文献に記されている。元は近くの常盤坂にあったが、昭和60年に現在地に移設された。
表には「従是南佐嘉領」右側面には「彼杵郡之内井樋尾」と刻まれている。
井樋尾茶屋跡

ここを通る旅人に心太(ところてん)を売っていた。写真の丸い石鉢は心太を入れる器だったとのこと。その石鉢には今も清水が流れ落ちている。
藤棚茶屋跡

石柱には「古賀の藤」と書かれている。
昔、家の前には大きな藤棚があり、長崎街道を通る諸大名や旅人の休憩所となる茶屋であった。
ここを通った菱谷平七は「茶屋一軒藤棚の見事に咲垂れたるがあるに立ちよりて、しばし休みながら玩賞して立出」と記している。
庄屋屋敷跡(領境石2基)

安政6年(1859)大村領東泊と天領だった古賀村の交換で、大村藩はこの地に庄屋を置いた。
写真の領境石は喜々津村と古賀村のそれぞれの領境にあったが、明治になってこのらに移設した。
左の石柱には「従是南大村領」、右の石柱には「従是東北大村領」と刻まれている。
役の行者神社

密教の山岳信仰が盛んになり、役の行者が祀られる様になった。
福瑞寺とキリシタン墓碑

福瑞寺は浄土真宗の寺で、キリシタン退治と称して寛永3年(1626)に開基されたものである。
この寺の庭に大きなキリシタン墓碑があるが、寺院開基以前のもので、形は花十字入りのカマボコ型といわれている。
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