小田〜北方


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 小田宿を過ぎると間もなく右手に馬頭観音堂がある。これから北方宿までの長崎街道は国道34号線の北側を沿うように走っている。
 大町町を中心としたこの一帯は、昭和の初期から昭和44年の杵島炭鉱閉山まで、石炭産業で活況を呈していたが、今ではボタ山が残るだけの静かな町となっている。
 この町並みを3kmほど歩くと国道34号線上の大町町と北方町の町境・赤坂から右方向に200mほどの堤防が見える。江戸末期に灌漑用水池として造られた焼米溜池である。昔、この辺りを焼米宿といい、船運に恵まれた船津で旅籠、船宿のほかに日曜雑貨店が十数件ある庶民の宿場であった。
 これを過ぎ500mほど行くと塩田道と伊万里・平戸道の分岐点、即ち追分にぶつかる。私たちは伊万里・平戸道を国道34号線沿いに旧長崎街道を木ノ元・高野と昔風の町並みを2〜3km歩いて北方宿に着いた。

馬頭観音と大楠樹

奈良時代の天平9年(737)に僧行基が大楠に馬頭観音像を彫り、以来、霊験あらたかな「楠樹の観音様」として近郷の人は勿論、旅人や藩主にも厚く信仰された。
江戸時代に側の観音堂が火災にあい、楠樹に延焼して一部焼けたことから、風化腐朽を早め、現在では空洞となり観音像は見ることが出来ない。
この楠樹のことはケンベルやシーボルトなどの日記や紀行文に見ることが出来る。

楠樹は天然記念物、町文化財に指定されている。
横辺田代官所跡

享和元年(1801)に佐嘉本藩の直轄地として藩主鍋島治茂公(第8代)が設置したもので、横辺田など15郷以上の地域の民生や課役を司どった所である。
土井家住宅

この民家は19世紀初期のもので、間口6間半、奥行7間、背後に2間の下屋を付け、屋根は本瓦葺、切妻造り、妻入形式をとり、2段の庇を付け、2階造りに見せている。
この住宅は街道筋に面した町屋であるが、土間が広く、農家風なところもあり、地方民家の一形態を示す価値ある住宅である。以前は造り酒屋であったものを、明治初期、土井家初代の所有となり農家として使用されている。
昭和49年に国指定重要文化財に指定された。
福母地蔵

南北朝時代の戦で犠牲となった人々の霊を弔うため造られたものと思われる。
龍王堤(焼米溜池)

寛政12年(1800)に鍋島治茂公が白石地方の新田開発に当たり、灌漑用水や干害防止のために造った池である。
                              六地蔵

追分の北側高台に六地蔵が祀られている。多くの旅人が旅の安全を祈願したことであろう。                                  
十三塚の碑
稲主神社

藩政時代多久邑を代表する神社の一つで、稲作の神として崇められてきた。また、古くは地方探題が置かれ、地方長官の役所跡でもあった。
境内には、稲荷大明神や山ノ神が祀られ、「狛犬」などの石像物が多く見られる。
拝殿には五穀豊穣、子孫繁昌を願い、農耕絵馬が奉納されている。
炭鉱が開鉱された頃から、広く働く人々の鎮守の神として崇拝されている。

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