原田〜田代


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 生まれ変わった原田宿をあとに旧3号線沿いに福岡県と佐賀県の県境に着く。ここが昔の筑前、筑後、肥前の国が接する三国峠である。今は峠と言った面影は全くないが、その当時は峠だったのだろう。
 ここには国道3号線を挟んで夫々に国境石が立っている。
 長崎街道は国道の東側を通り、300mほど行ったけやき台駅の南外れから国道3号線、JR鹿児島本線を渡り、猿田彦、陣屋跡のある白坂部落に入るが、県境から白坂までの道は今はない。
 白坂からは長崎街道と刻まれた新しい石柱をたどりながら基山町の基峰鶴酒造の前を通り、鳥栖市の今町へ進む。
 今町あたりは乗用車が擦れ違うのも困難なほどの狭い道であるが、旧家もあり、長崎街道らしい感じがする。
 ここを過ぎると開発中の新興団地・弥生ケ丘、さらに1kmほど歩くと国道34号線、続いて長崎自動車道である。
 この下を通り抜け200mほど行くと追分石に着く。この辺りからが田代宿である。

二国境石

この国境石は国道3号線の西側に建っているもので、肥前領と筑前国の境界を示すものとして、文化4年(1807)に對馬藩と黒田藩との話し合いにより建てられた。
現在の場所は国道3号線の建設により西に約15m寄っているが、元の位置にはマンホールを造り、現物を保存しているとのことである。
当時、この国境石を建てるに当たり、境界について話し合いがつかず、最終的には境石の他に傍示石を建て、夫々は二本の石柱を背中合わせにし、一方に「従是西肥前国対州領」、その一方に「従是東筑前国」と刻んで、その背中合わせにした線を両国の境界としている。

国境石

この国境石は国道3号線の東側に建っており、福岡藩により天保5年(1834)頃に建てられものと考えられる。
この棹石は高さ3.42m、幅52cm、厚さ48cmの福岡藩内最大の規模を誇るもので、半円状の丸みを持つ「竹底彫り」と呼ばれる技法で、「従是北筑前国」と彫られている。
石垣は、すだれ加工を施した切石を亀甲くずし積の技法により積み上げたもので、一部には切込ハギの技法も見られる。
三国境石

肥前国、筑前国、筑後国の境を示していた石柱で、二国境石が建てられる2年前の文化2年(1805)に建て替えられたものである。
この石柱には、「三国境石」と彫られており、その台石には四角い3つの穴があり、ここには国名や地名などを彫った石柱が建てられていた。
また、この石柱から少し離れたところには夫々の国が主張する国境線を示す高さ1mほどの傍示石が建てられていた。

三国古往還

上の写真のすぐ南側にこの長崎街道が100mほど延びているがその先は無くなっている。
右側は国道3号線、更に向こうに右から左方向に横切っている橋のようなものが九州自動車道である。。
白坂の猿田彦大明神碑

猿田彦大明神の碑が前に、後は庚申塚碑が立っている。
この碑一帯にはこの地区の人達により、綺麗な花や榊が供えられている。
陣屋跡

ここは白坂である
昔、ここを通る旅人などが馬や駕籠を止め、お茶でも飲んだのであろう。障子の左の柱には駒留めの鉄輪が残っている。
当時の旅人は、この辺りには人家二三十軒、茶屋もあったと記している。
基峰鶴酒造

ここは基山の銘酒「基峰鶴」を造る基峰鶴酒造である。家の軒先には新酒が出来たときにつるす杉球がぶら下がっている。
長崎街道はこの前を通っていて、昔の旅人はこの一帯にかけ人家五六十軒、茶屋,商家、酒屋ありと日記に記している。
鳥栖市今町と庚申尊天

今町は北の木山口から南の田代間の町並みで、承応2年(1653)に町立され、現在でも街道に沿い軒を並べるように家並みが続いている。
田代昌町追分石

この追分石は、田代宿の東出入口にあたり、ここから日田英彦山道が分かれる道しるべとして建てられた。この正面には「左こくら・はかた」側面に「右ひこさん」と刻まれている。
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