松原〜大村


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 松原宿を過ぎて1.5kmほど歩くと郡川である。当時の渡渉場は現在、国道34号線に架かる福重橋より50mほど下流にあって、玄武岩の飛び石が敷かれていたが、今は何の形もない。
 福重橋を渡ると直ぐ左の旧道に入るが、その所に長崎惣兵衛の墓がある。
 旧道を500mばかり行くと、後は胴塚のある桜馬場町まで約4kmは国道34号線が長崎街道である。
 桜馬場を過ぎると昔の面影十分な市道を松並、杭出津、水主町と歩き、大村宿に入る。
 竹松から杭出津までの地域には首塚、胴塚、獄門所跡、放虎原殉教地などキリシタン迫害に関わる碑が点在するが、郡崩れと言う131名に上るかくれキリシタンの斬罪によるものである。

 
左写真の「長崎街道辻道標」は大村市内唯一の追分石で、「従是左彼杵道」と刻まれている。

長崎惣兵衛の墓

玖島城の築城奉行を務めた。
首塚

明暦3年(1657)10月、大村領郡村に潜伏していたキリスト教徒が検挙され、411人が斬首の刑を受け殉教した。そのとき、放虎原で処刑された131人の首は20日間獄門所前に晒された後、この地に埋められた。
胴塚

放虎原で処刑された131人は、キリシタンの魔法で生き返ってはならないと言うことで、首と別けられ、この地に埋められた。
獄門所跡

放虎原で処刑された131人の首を塩漬けにして20日間、戸板に乗せて晒した所で、マリア像が建てられている。
本経寺

万歳山本経寺は、大村家の菩提寺として、19代(初代藩主)大村喜前によって創建された日蓮宗の寺院である。
喜前は、キリシタン大名であった父純忠の後を受けて領主になったが、キリスト教禁制の動きにより、領地の安堵を考え、肥後の加藤清正の勧めにより日蓮宗に改宗した。
境内には、広大な大村家の墓地があり、藩主を初めとした代々の大村家の墓がある。
墓石の大きさや石工技術の精巧さ、形状の種類の多さは目を見張るものがあり、全国的にも珍しいと言われ、2万7千石の小大名としては破格の規模の墓碑群である。
長崎街道と大村宿

大村市の商店街、本町通りである。この通りが長崎街道であり、宿場でもあった。この付近には問屋場、高札場、本陣などがあった。
アーケードの垂れ看板には「ここがうわさの歴史の散歩道 大村宿本陣通り」と書かれている。
本陣跡

食堂にも長崎街道を描き脚を呼び込んでいる。この辺りが本陣であった。
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