黒崎〜木屋瀬


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 黒崎宿は良く整備された宿場で、史跡の場所には説明板が立っている。
 黒崎駅前の銀天街ーくまで通りは長崎街道であり、銀天街には往時の黒崎宿を描いた10m大の看板があった。
 くまで通りの西の外れが西構口である。100mほど先に乱橋があり、それを左折すると道路を挟んで正面に曲里の松並木が目に入ってくる。
 公園化された松並木を通り、幸神、一里塚を見ながら細い道を進む。
 これから先、銀杏茶屋までおおむね国道200号線が長崎街道である。この中間付近に凉天満宮、やから様があり、今は住宅が建ち並んでいるが、江戸時代は人家が20軒ほどと茶屋があったようである。
 小嶺台2丁目からわき道を300mほどに入ると、銀杏茶屋に着く。
 ここはシニアのボランティアが守っており、親切に案内してくれお茶まで頂いた。
 石坂は昔の面影はなく、階段が出来、舗装までしているが、この坂を大名が通り、江戸幕府へ献上する象やらくだまでが苦労して通ったのだろうなと思いながら、そこで昼弁当を摂った。
 石坂から約1.5kmほど行くと大日堂、そして北九州都市高速4号線をくぐり、しばらく歩いて木屋瀬宿の東構口に着く。

曲里の松並木

この松並木は江戸幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で、日光の杉並木(日光街道)、安中の杉並木(中仙道)、さらに箱根の杉並木(東海道)はその代表的なものである。昭和20年頃まで黒崎から木屋瀬にかけて街道には多くの松を残していたが、今は僅かにこの辺りが昔日の面影を留めているだけである。
市指定史跡として幅20から30m、長さ約310mの地域が旧長崎街道緑地として整備されている。
幸神(鞘の神)

幸神は村境に建てられ、村に侵入する悪霊や病の進入を防ぐ目的で造られたもので、1000年以上の昔からこの地にあったそうである。鞘は刀身の錆を守るということから鞘の神と名づけたもので、現在の幸神(さいのかみ)は鞘の神からつけられた地名である。昔の旅人はこの祠の前を通るとき必ず旅の安全を祈願したことであろう。
一里塚跡

この塚には待つが植えられていたようで、次の一里塚は北は前田村、南は小嶺村にあった。
凉天満宮

菅原道真公をお祀りしている「菅原神社」である。
手前に長崎街道が通っており、境内にあった大松の下で旅人が休憩したことで、この松は「夢想の松」、「凉の松」と呼ばれ、いつしか神社を「凉天満宮」と呼ばれるようになった。

やから様

平家の落人で、乳飲み子を抱えた女御と乳母の3人が夜久(上津役)まで逃げてきたが、疲れ果て一歩も進むことが出来ず道脇の谷間に降りて野宿していたところ、乳飲み子の泣き声で追っ手に発見され、さてはこれまでと自害した所である。土地の人達はこれを悲しみ、冥福を祈って、この地に祠を建てたのが「やから様」である。
土地の言葉で夜泣き・むずがりのことを「やから」と言っていたそうで、夜泣きで困っている親は夜泣き封じでお参りしたと言われている。
立場茶屋銀杏屋(北九州市指定文化財)

銀杏屋は江戸時代に九州で唯一の脇街道であった長崎街道の黒崎宿と木屋瀬宿の間の「立場茶屋」として、参勤交代の諸大名をはじめ、長崎奉行、巡見使などが休憩したところである。主屋は天保7年(1836)10月2日の火災による焼失後に建てられたもので、庭の銀杏の大木には、今もこの火災の焼け跡が残っている。
銀杏屋は長崎街道に残る「上段の間」を持つ唯一の立場茶屋の遺構として、近世交通史を考える上で重要であるとともに建築年次が明確で質の高い主屋は近世の町屋建築を考える上で貴重なものである。
石坂の急坂

江戸時代、この地は長崎街道の黒崎宿と木屋瀬宿の間にある難所であった。
下石坂への道は現在階段になっているが、急坂が残っている。黒崎方面からの地形は現在その面影を知ることも出来ないが、かっては、小嶺インターチェンジ付近から山を登り、頂上から「アケ坂」という急坂を下り、さらには、「中の谷」の谷底から上石坂の急坂を登るという難所であった。このため大名でさえも駕籠を降りて歩いたといわれている。
この坂の頂上には諸大名や長崎奉行などが休憩した「立場茶屋銀杏屋」があり、その周辺には茶屋があった。
大日堂

堂には大日如来が祀られており、周囲三辺には石像がずらりと並べて祀られている
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