武雄〜嬉野


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 塚崎宿(武雄宿)の西の外れには鍵形道路があり、これを過ぎると新町に入る。この辺りは、今なお古い家が残っていて昔の長崎街道の感じを醸し出している。
 塚崎宿から1キロ半ほど細い道を歩くと国道35号線にでる。ここを横断した所に朽ち果てた薬師堂がある。
 200mほど行くと塔ノ原橋と言う石橋を渡るが、この辺りから渕の尾峠への山道となる。
 昔の道は谷間を通っていたようだが、今は渕の尾水源地が出来ていて通れない。
 峠付近まで新しく造られた道を歩くと左側に山道があり、そこには「長崎街道」と書いた小さな案内標識が建っている。2m幅の樹木が両側から覆いかぶさった人の通ったことのない暗い道である。200mほど進むと道は全くなくなり、道らしいところを辿って峠を越した。
 下りは北川川沿いに国道34号線の東川登にでる。
 ここからは国道34号線沿いに蓮和の地蔵、貴船神社と寄りながら小田志の追分石まで歩く。追分からは田圃道や山道を2kmほど歩いて塩田道と塚崎道の追分に着く。
 嬉野にも近くなり、民家も増えてくる。嬉野の住宅地を歩きながら国道34号線をわたって600mほど歩くと和多屋別荘に着く。
 そこが嬉野宿の東構口である。

牛鼻山善念寺

「牛鼻」の由来は、平安時代の末、源為朝が若木に館を構えていたとき、領主の助明に頼まれて、有田の白川に出没する大蛇を退治した。そのうろこを牛の背に積み、大宰府に行く途中、新町の西の入口の晒橋まで来たとき、牛が鼻をついて動かなくなったという。以後この町は「牛の鼻町」と言われるようになった。この名が善念寺の石の門柱に刻まれている。
牛の鼻町の旧家

土蔵の家、馬つなぎ鐶がついた家、中村涼庵の旧宅などがある。
牛の鼻町の旧家(中村涼庵旧宅)

幕末の医師中村涼庵は、長崎でシーボルトの最新医学を修得して、天保2年(1831)武雄に帰り開業するとともに、時の領主鍋島茂義の侍医となった。
かれの功績は天保10年(1839)自分の妹の子と茂義の子に、日本最初の種痘を行い成功したことである。
西福寺

住吉城のこうがいに建立された浄土宗の古いお寺で、住吉城が焼失して武雄に移住したときてらも現在地に移った。
奥には朱塗りの山門が見える。
薬師堂

国道35号線の脇に建つ朽ち果てた薬師堂である。
塔ノ原の石橋
渕の尾峠

両側からの樹木に覆われ薄暗い馬手である。先は道が無くなっている。
蓮和の地蔵
貴船神社
明元寺の門(上使屋の門)

山門は最初、嬉野宿の上使屋(大名、長崎奉行等が泊まる処)の門であったが、明治4年に明元寺の山門として移設された。
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