木屋瀬〜小竹


表示名をクリックすると写真にリンクします
 この区間は2度歩いた。1度目は平成13年4月直方から小竹へ、2度目は平成16年10月小竹から木屋瀬宿へ、歩く方向は逆であったが、いずれも出発地までは電車を利用した。
 木屋瀬宿から直方の渡しまでの長崎街道は推定されるものの確たるものはない。遠賀川の堤防を通っていたのだろう。
 直方の渡しは現在、遠賀川に架かる日の出大橋の北側になる。
 橋の袂に立ってみると、昔、渡し舟が行き来していた長閑な風景が目に浮かぶ。昭和になって石炭産業が盛んになり、石炭を洗う水で川の水は真っ黒になっていたのを思い出す。
 現在、遠賀川と彦山川の交わる三角洲には毎年市民の手で植えられた1万球のチューリップが咲き、チューリップフェアーが行われている。
 閑散とした古町を通り多賀神社、石炭記念館に入る。日本の発展に貢献してくれた筑豊炭田の歴史が飾られている。
 古びた直方の街を過ぎ、田園の広がる小竹町に。南良津唐戸を過ぎた頃から、遠賀川沿いに延びた国道200号線が長崎街道である。行き交う車に気をつけながら小竹の街に入る。
 ここは木屋瀬宿と飯塚宿の中間で、旅人などの休憩場所として使われたところである。遺跡はよく整備され、街道の面影すら感じる町である。

直方の渡し

日の出大橋の上流側(西から東を見る)
昔の面影は全くない。
長崎街道

旧長崎街道であった古町商店街(約400m)
多賀神社

多賀神社は直方市の市街地を望む小高い丘の上にあり、祭神は天照大神の両親で、日本書紀による日本誕生の神・伊邪那岐命と伊邪那美命である。
創建時期は確かでないが、奈良朝以前と言われている。
黒田直方藩5万石の時、産土神として栄え、4年に一度、10月中旬に神幸行事として、多賀神社から新町にある須賀神社の仮殿まで、飾り山8台が平安時代の装束で行列するのが見ものである。
正面の鳥居は宝永の鳥居と言われている。
直方市石炭記念館

筑豊炭田は明治の初めから昭和51年までの100年間に、約8億トンの石炭を産出し、日本の発展近代化に貢献した。
筑豊に炭鉱が少なくなった昭和46年7月、「炭鉱の歴史」を後世に伝えるため、直方市石炭記念館が開設された。
貴船神社

水神を祭る神社
兵丹の庚申塚

庚申の申はサルのことであるから、猿田彦大明神と同じく道案内の神のことである。
南良津唐戸

昔から遠賀川は雨季になると洪水になり、地域の住民は永くその被害に苦しんでいた。これに心を痛めた黒田藩は、寛永6年(1629)に堤防を築く工事をはじめた。
南良津唐戸は、家老栗山大膳によって造られたと伝えられている。
古老の話によると、この唐戸の川上に面したちゅうおうの石柱は、回転する仕組みにできていて、洪水の祭には流れてくる芥等をうまく下流に流すことが出来たという。
長崎街道この唐戸の上を通っていた。
観音堂

遠賀川の堤防即ち、国道200号線(長崎街道)の脇に建っており、旅の安全か、あるいは洪水からの災害避けのために祀ったのだろうか。
地蔵堂

お地蔵さんでもって外周を囲みその中央に祠がある。
小竹はお地蔵さんが大変多く祀られているところらしい
御小休所跡

小竹は木屋瀬宿と飯塚宿の中間にあって、参勤交代の諸大名の小休所を設けたところである。
地蔵堂(地蔵公園)

94体のお地蔵さんが安置されているとのこと、ここには遠賀川に流れ着いた六地蔵が祀られている。
芭蕉翁の句碑

地蔵公園の中に芭蕉翁の句碑がある。小竹は俳句の盛んな町で、古くから名の或る俳人が出ている。
長崎街道の街並み

旧街道の面影を残している。
郡境石

江戸時代に造られたと言われている穂波郡と鞍手郡を分割する石碑で、「従是北鞍手郡」と彫られている。
街道沿いの旧家
小倉〜黒崎 黒崎〜木屋瀬 木屋瀬〜小竹 小竹〜飯塚 飯塚〜内野 内野〜山家 戻る
山家〜原田 原田〜田代 田代〜轟木 轟木〜中原 中原〜神埼 神埼〜佐賀
佐賀〜牛津 牛津〜小田 小田〜北方 北方〜武雄 武雄〜嬉野 嬉野〜彼杵 宿場
彼杵〜松原 松原〜大村 大村〜諫早 諫早〜矢上 矢上〜日見 日見〜長崎